1)私とは何か

 「個人」から「分人」へ

 平野啓一郎著

<本当の自分>は、ひとつじゃない!

 

小説家が、小説を書く過程で、真剣に考えた結論。

自我なんていうのは、嘘だ というのは、インテリ

の間では割りと常識的な物の見方である。

 

それをどう、自分の経験に照らして納得行く形に落としこむか。

平野啓一郎さんは、分人の集合が、こころであると考える。

確かにそう考えると、コミュニケーションが、楽になるような

気がしてくる。小説家の視点で、うまくこの浮世を生きていく

方法を提案したものと言える。

 

ロボットにこころを作るには、分人が必要だ という指摘は鋭い。

なるほど、出会う人によって性格が変わる しかも、相互作用で

自然発生的に ならば、心があると見做せるかもしれない。

 

 

2) 「認められたい」の正体 承認不安の時代

山竹伸二著 講談社現代新書 2011年3月刊

 

なかなか読みにくい本で、読了するまで時間がかかった。

この手の本は、自分の認めたくない過去と向き合う必然が

あって、なかなか前に進まないという要因がある。

 

今は忘れられがちなフロイトの症例を引き合いに出すなど

フロイトの再評価又は、著者自身の焼き直し(再生)という

側面があって、精神分析的なモデルや方法論に懐疑的な人には

辛いだろうと思う。

 

そうでない人でも、それは、一つのモデルで考え方だと

割りきっても、過去と向き合うことは、辛いものだ。

 

分析派の人は、それを乗り越えると、、、、、、

というのだが。実際にはあまりに費用と時間がかかるので

一般には広まらないという事実もある。

 

そういう先入観を持って読むとなおさら読みにくい。

しかし、モデルとしては、一定の有効性があるかも

しれないとは思った。

 

親との幼児期の関係性が「自己ルール」として身体化して

内面化しているという説明には、確かにとも思う。

自分でも不合理だと思う 心の道徳的なささやきは、ある。

それに抵抗感があって、従う場合と従わないで罪悪感を抱く場合

両方ある。

著者がいうような方法で、「自己ルール」を修正するのは、ありかも

しれない。ただ、心の旅は一生ものなので、長い目で見てやっていく

しかないのも、そうだろうと思う。

 

前に買った本でユング派の老松克博著「ユング的悩み解消術」平凡社新書

を調べてみたら、同じ2011年8月刊とあり、へ~と思っています。

今からこちらも読み返そうと思っています。

比較するときっと面白いはず。

 

3)「ユング的悩み解消術」 老松克博著 平凡社新書 2011年8月刊

 

改めて読み返して、フロイトモデルよりも、ユングモデルの方が無意識の

範囲が広く深く複雑だと分かった。

どちらがいいというのでもないし、長所短所ありそうだ。

好みの問題もある。

 

同じ悩みや葛藤を扱っても、モデルによって解釈や方法が変わってくるのは面白い。

短期的に個人的な解釈をするならば、フロイトモデルでも説得力がある。

しかし、親子関係だけで見ないで全人類史的な広い視野で自分を位置付けるなら、

ユングモデルは有効だろう。

しかし、これは長期的で広い心の旅を覚悟する必要がある。占いとも大きな親和性がある。有名な共時律=シンクロニシティという考え方。多くの占い師の説明にも出てくる。また東洋医学で、ツボがなぜ効くのかなどの説明でも出てくる。

そもそも東洋医学は、占いと深い関係がある。もともと2千年以上前は、東洋医学も占いも分離していなかった。

 

ゆえに、占いを頭から毛嫌いして東洋医学を極めようと思っても無理なのである。

だからといって、頭から占いにのめり込むのもおかしい。ユングは、晩年易にハマって治療にも使っていたという。それは、単に無批判に盲信したのではなく、ユングモデルに従って応用したので、分かっている人にはいい手段になるのでしょう。

 

シュタイナーもオカルトは実用性が無ければ、いけない。無批判に盲信してはいけない と言っている。

 

脱線したが、悩みの解消にいくつもの方法があること。フロイトモデルでもユングモデルでも説明は同時に可能で、矛盾はしない。レイヤーのように、年輪のように重なるだけだから。ただ、心の深さが違うので、やり方が違ってくる。

 

心を木に例えれば、悩み葛藤は 根本で別れた枝葉が成長とともに距離が離れる

その距離 間の溝が大きくなった事が原因だ。という考え方は共通だろう。

フロイトモデルでは、一方の枝を他方の枝に近づけようという考え方。

ユングモデルは、多分枝分かれする前の根本で切って再生させようという考え方。

 

しかもユングの木は人類の歴史分あるので、途方もなく大きい。ユングによれば、神話的イメージのなかで、繰り返し繰り返し無限にループしていくのだという。成長するという目的のために。

 

フロイトモデルにしても、親子関係の葛藤を乗り越えることで成長するという考えでは、同じだと思う。

 

人は目に見えない縁という様々な色の糸で結ばれ、出会いまた別れる。それが、運命であろう。日本人には馴染みやすい思想である。私もそう思います。その繰り返しの中で、やはり(望まなくても)人は、成長していくのだと思う。ならば、望んで成長した方がいいとも思う。

ただ、悪を懲らしめて正義だけにすればいいという単純なことではないですよ。

 

自分の中の悪や罪を認めて、清濁併せ呑む様な度量の大きさを体現すること。これは、現代ではますます難しいことですね。

 

法然上人や親鸞上人が悪人正機説を唱えたことは、有名ですが、このことと関係が深いのでしょう。

 

まあ、人の心は難しいですし、一生の旅ですから、焦らず慌てず諦めずゆっくり行くしかないですね。

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